遅れずに目的地につくということ

小さい頃、
時間には遅れないように親にとりはからわれていたので、
遅刻はしなかった。遅刻なんて有り得なかった。
そのかわり、「早くしなさい」とずーーーーーーーーーっと言われ続けていた。

20代前半、
親がまだ出かける時間を聞き出しては「早くしないと遅れる」と言っていた。
間際になってしまって間に合うとものすごくホッとした。

20代後半、
時間に遅れると、パニックになっていた。
相方と車で出かけて、目的地に時間どおりに着かないと、たいがい助手席でパニックをおこして泣いていた。もちろん相方は平静。「仕方ない」。
何がそんなに違うのか不思議だった。

もちろん「遅刻はよくない」のだが、わたしにとっては遅刻は全否定に値し、彼にとっては遅刻は人格の否定にはならないらしい。

自分の価値について少し見直した後、「遅刻パニック」はずいぶんましになった。
しかし時間を守れなくなってしまった。

コドモをつれて出るから余計に時間が守れない。
そしてわたしもコドモ達に「早くしなさい」と言いつづけている。
果たしてどうやってコドモ達に「しつけ」をすればよいのだろうか。


時間に遅れないことを「良い習慣」としてしつけるのは、良いことだ。
しかし、「時間に遅れたらすべてが水の泡、人格は否定されぺっちゃんこ」になってしまうようなしつけは、どうかと思う。

「試験でいい点数がとれなかったから」と自殺しようとする子供について、報道されることがある。「うっそぉー」と言いながら記事を読む人が大半だろう。でもわたしはその「価値観のゆがみ」をたいへん身近に感じる。弱さとかそんなんじゃない。その子供にとって、悪い点数は「全否定」なのだ。そのような価値観の世界では、「いまここに生きている自分」そのもの(itself)に、価値はない。
それではいけない。