こびとさんの見えざる手

内田樹センセイのblogの10/3のエントリ「こびとさんをたいせつに」より

私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。

こびとさんは確かにいると私は思っている。私が時々つぶやいている「ちょっとした魔法」は、この、こびとさん達のお仕事なわけで。信号が行く先々で青だったり、仕事の連絡相手がタイミングよくつかまえられたり、ごはんの支度がいつになくスムーズにできたり、時間あたりの能率が目に見えて上がったり、遅れそうだと思った待ち合わせに時間ピッタリに到着できたり。
そういうときは、心の中で感謝している。…つもりなんだけど、ここ数日はちょっと様子がおかしい。こびとさんの機嫌を損ねてしまったんだろうか。

私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。
それは同じ台所を夜と昼で使い分けをしている二組のクルーの関係に似ている。
昼のクルーがゴミを散らかし、腐った食材を置きっぱなしにし、調味料が切れても買い足ししておかないと、夜来た「こびとさん」たちは仕事がしにくくて困るだろう。
だから、自分のパートが終わるときには、「こびとさん」のためにちゃんとお掃除をしておいた方がいい。
そういう気遣いを自分自身の知性の「二重底の下の世界」でこつこつ働いている「何か」に対して示すこと。
それはほんとうに、ほんとうにたいせつなことなのである。
そんなことを言ってもわからない人にはぜんぜんわからないだろうけれど。

うーん、基礎ゼミというと確か大学1年生とかだし、「わかるはずの人」でもまだわからないかもしれない。おそらく自動割り当てで、内田先生を選んで来た訳ではないはずだから、ますます、ぜんぜんわからないかもしれない。
でも、四十過ぎた私にはわかるぞ。
お掃除というのは、物理的な意味で身のまわりを整えておくこととも通じる。そう考えると、ちょっと身のまわりを散らかしすぎてしまったのが悪かったのかもしれない。スパイダソリティアなんかにはまって貴重な時間(と頭脳)を浪費しているのも、よくなかったかもしれない。
誰が見ている訳でもないのに品行方正にふるまおうと心がけたり、誠実であろうと思ったりするのは、「神様が見ている」と考える向きもあるだろう。そういう場合は、この「こびとさん」は、神様の分身(天使?)なわけだ。神に感謝することは、こびとさんに心の中でお礼を言うことと似ている。(多分同じこと。)そして、こびとさんに気持ちよく仕事をしてもらうための心得は、イエスが語り聖書に記された、日々のいましめと共通すると考える。そうして私達は、神に見守られ、神の見えざる手に導かれながら、日々を営んでいくことになるのだ。