クリスチャンの神棚

わたしは時々実家の父(牧師)にヘンな質問をする。
「神社からお札をいただくような人は、家に神棚があって、毎朝お水をかえて、拝むよね。
お仏壇のあるお家では、ごはんとお水をあげて、お線香をたいて、チーンってやって、一日を始めるよね。
これって、一日を始めるにあたって、とてもいい習慣やと思うねんけど、キリスト教では、そういうのは、ないの?」

以下は父からの回答。

ロシア正教とか、カトリック・正教のたぐいでは、家の片隅にイコンを飾って、その前に聖杯を置いて、ロザリオを手にかけてお祈りをする。一種の祭壇やね。これがどの家にもある。
ラテン系の国でも、マリア信仰が盛んだから、マリア像や絵画を置いてお祈りをしている。首からロザリオをかけてたり。

日本でも、神棚をちゃんとしてるのは、商売をしてる家ぐらいじゃないのかな。宗教行事というより、商売をする家の習慣として、うけつがれているものでしょう。
仏壇に至っては、仏教というよりも、先祖とのつながりに感謝する、自分のルーツを確認する、という意味になっている。
もちろん悪いことじゃない。大変いいことなんだけど、それをアコギな商売のタネにするような輩がいるのは、いただけない。

さて、うち(実家)みたいなプロテスタントの家庭では、そういう形あって目に見えるものはないけれど、たとえば、「食前の祈り」があるでしょう。
人はみんな毎日必ず食事をするから、食事の前に必ず神の恵みに感謝して、朝なら「今日一日を」昼なら「午後の働きを」夕飯なら「残された時間を」お守りください、精一杯つとめます、というけじめになるわけよ。
※ただし実家はとある事情により食前の祈りも省略 T_T)

あとは毎週日曜日の礼拝。熱心な人は木曜あたりに祈祷会をしたりする。
(わたしの相槌:なるほど、ラジオで早朝に宗教番組やってるのも、神棚を拝む代わりかな)

究極的には、目に見える祭壇のようなものがなくても、心の中に祭壇をもうけて、事あるごとに、何もなくても、神に祈るというのが、(マルティン)ルターのめざした信仰のかたちでしょう。


以上が父の回答。

心の中に、祭壇かぁ。確かにそうあるのが理想だけれども、随分難しいことにチャレンジしちゃったのねぇ、ルターさん@宗教改革


以上、黒きつねさんの覚え書きから思い出したので、書いてみました。