身の回りにまとっているのはなんだろう

ヒトサマの日記につけたコメントと、そのあと考えたこと。

その1)

Aさん:
>本当に縁がある人とはそんなに躍起にならなくても、自然と一緒に居ることが多い。

わたし:
>それでもお互いの波長がずれてくると、すれ違いが多くなってきてしまったりする。でも、あえて執着を捨てて、目の前のことに邁進してたら、また、自然と再会することも、あるかなぁ。ご縁があれば。

あとで冷静に考えると、執着の多い時は無駄な動きが多い。無駄といっても色々で、後日結果として無駄になった場合もあるし、最初からムリじゃん、っていう動きの場合もある。
身の回りに執着の色のついた「ぼろっきれ」をまとって、色眼鏡までかけている状態。
ある日、ぱっ、と執着から手を離せば、身軽になれる。本来のご縁に立ち返ることもできる。
もちろん、無駄な動きといっても、そこを通過したから今の自分があるわけで、つきつめて言えば無駄なことなど何一つないんだけどね。


その2)

Aさん:
>そして帰る場所が見つかったときに、「一人じゃない自分」を感じることが出来る。

わたし:
>わたしにとっては、ボイス(合唱団)が帰る場所だなぁ。同年代が減って若いコばっかりになってきても、やっぱり素のワタシがそこにいる。あそこでなら、何故か安心して思ったことをホイホイ口にできる。
>
>ああ、もっとあんなふうにしてればいいのか、普段から。

ボイスフィールドに入ってしばらくして、「壁を作らない自分」がそこに居られることに気づいた。その頃は「シアターピース」(演劇の要素もとりいれた楽曲)をやっていたので、よけいに、「新しくて懐かしい自分」と出逢う瞬間がたくさん訪れた。
それから15年ほども経って、いろいろなことがあって、ボイスの中でも悩んだり執着したりしたけれど、やっぱりあそこでは素のままでいるのが一番だな、っておもった。とんがった個性のヒトがいても、「あいつはあんなヤツやねん」で済ませる懐の深さみたいなものがある。*1

先日のカウンセリングで、「自分の気持ちやなんかを、他人に話す機会が、あんまりないんじゃないですか?」と聞かれた。確かに、必要なことは人と会話するけれど、思ったことや感じたことを、メールじゃなく、口に出して言葉にして語らう機会は、ほとんどない。そういう相手(友達)が近くに居るとラクなんだけどなぁ、っておもうことはあるけれど、何故かみんな遠くに住んでいたり、忙しかったり。

そうだ、この「休業中」に、お友達に片っ端から会いに行くはずだったんだ。忘れてたよー。

*1:たまには受容不可能なケースも発生する