「祈り」について

えこまさんのblog(id:eco1) で語られた「祈り」について共感したので、忘れないようにこちらに書かせていただきます。

人には、それぞれ課せられる「課題」がある。生徒や学生のあいだの「宿題」「問題」との違いは、「ひとりひとり違った、複雑な課題」であることだろうか。ちょっとやそっとアタマをひねっだけでは解けないシロモノだ。

この記事を書いている今日、ひさしぶりに村の私より少し若い女性と話す機会があった。
彼女も長男の同居の嫁として随分と気苦労をしてきている。
嫁姑の葛藤を聞かされているうちに自分が通ってきた道と全くおなじものだけに、気持ちがわかるだけに辛い。わかりすぎるとかえって何もいえなくなってしまう。どんなアドバイスも言葉も彼女にとっては気休めにもならないだろうというのがわかるから。

自分以外の人の課題を、かわりに解いてあげることはできない。(かわりにトイレ行っといてあげるわ、っていうわけにいかないように。)
目の前の障害物をとりのぞいてあげたりすると、その人は課題を克服することなく過ぎてしまう。また同じ類の障害物にぶちあたって、困るだけ。だから、気休め程度のアドバイスを繰り返すしかない。
心配して思いわずらってみたって、こんどはこちらが「わずらう」だけで何にもならない。
となると、あとは祈るだけ。

結局、その人の人生の課題はその人が解くしかない。

そうとしか言えない。

同じような問題、状況におかれていても、それぞれに問題の解き方、クリアの仕方が違うのだ。

そうやって見守る事しか「私」には出来ない。

そして早く彼女が本当の意味で悩みから解決される事を祈る事しか出来ない、と思った。


祈りとは便利な言葉かもしれないが、本当の祈りとは「他人のために」するものなのかもしれない、とこのとき、ふと思った。

その人が道を見つけることができますように。見つけるための適切な導きが適切なところから与えられますように。
相手が大切な人であればこそ、下手な手出しをするより、愛をもって祈ることしかできないのかもしれない。

自分のために祈るとしたら、「みこころにかなった適切な働きができますように、お導きください。また、みずからに与えられた課題に取り組む勇気を、お与え下さい。」といったところでしょうか。