宗教とか

晶晶さんとこからの帰り道。
電車のクロスシートで、隣になったおじさん(篠山在住)から話しかけられて、「飲み屋で渡し忘れてんけど、よかったらたべて」ってGINSOの端カステラを2袋ももらい、三田と篠山の町内会の話で盛り上がり...「黒豆ができたらもらいにおいで」と住所交換をしたところまではよかった。
「いきつけの喫茶店の電話番号」をケイタイで探してはるのを見るともなく見てたら、グループ名に某聖書系新興宗教の名前が!
案の定さいごに「こんなの勉強してるんやけど」と分厚い冊子がカバンから出てきて...。
「ああ、その話は結構です。わたしはクリスチャンです」というと、押しつけはしなかったけど、気まずそうにごまかそうとするので、「宗教と政治と体重の話は、どんなときでも、まず、しないほうが賢明ですよ。わたしはそう学校で習いました。」と、駄目押しをしておいた。

体重はともかく、宗教と政治の話は、非常に個人的なことなので、家族の間でもしない方がいい場合があるとおもう。父親は牧師だが、姉は(結婚後)違う宗教を信じていた時期もある。わたしはたまたま父親の宗教解釈をゆるやかに気に入っただけ。解釈という点では母との間でも相違点があるように思うのでその話題では極力話をしない。
そして相方の実家は仏教だが、わたしはふつうに作法に従って葬祭法事などに出るし、法話も熱心に聞く。実家へ帰ったらコドモと一緒にお仏壇にごあいさつするように心がけている。それがその家のルーツとつながるひとつの方法だと、心から信じているし、今生きている人たちとのつながりのひとつの方法でもあると思うから。(ただ、かえって気を遣わせてしまっているらしいということは、感じている。むずかしい。)
しかしこれはなじみのある仏教だったからであって、これがもしいわゆる新興宗教だったとしたら、「個人的なことですので」と、様々なことを断っていたかもしれない。
宗教の話はやっぱりむずかしい。ただいえることは、どんな宗教でも、「信じて精進すれば人生のすべてがうまくいく」みたいな、現世的・物質的な「ご利益」ばかりを追いかけていては、本質を見失ってしまうということだろうか。