いじめはなかった?

寝屋川の学校での刺殺事件。学校側のコメントで、犯人の在学中に「いじめの事実は確認できなかった」とのこと。
やっぱり、そういうコメントになるんだな。
小さな仲間はずれや「からかい」や無理強いは、教室で毎日数限りなく起こっている。デリケートな人間からすると、それらはすべて「いじめられた」と記憶に残ることだってあるのだ。しかし、その「いじめられた」人が物静かな分、他の人の記憶には一切残らない。周りにも、相手にも。
小学生の頃、わたしは1年生と5年生と、6年生の最後にいじめられたと記憶している。相手は全部同じ。1年生のとき、テストの答案を交換させられた時はさすがに親が出てきたので、誰も覚えていないということはないだろうが、おそらくその他は誰の記憶にもカウントされていないだろう。相手の記憶にも。
歩いていたら帽子を取って投げられたり、いうとおりにしないと平手打ちだと言われたり、きたない子呼ばわりされたり、話しかけても無視されたり、ひとつひとつは「仲が良い相手とでもやる、ちょっとしたからかいのコミュニケーション」だったのだろう。でもそれは、わたしの知っているコミュニケーション方法ではなかった。毎日積み重なるうちに、わたしは傷ついて、口を閉ざして、家に帰ってから泣く以外、何もできなかった。
それがある日同じ相手から「仲良くしよう」と言われて一緒に遊ぶようになった。もうこの時点で「あの人とこの人は仲が良かった。いじめはなかった。」ということになってしまうんだろう。でも、わたしの記憶の中には、「いじめ」はずっと残っているのだ。
どうして、いじめを「あったorなかった」の2つに1つでしか語れないのだろうか。せめて「気づかなかった」と言えないのか。