小田和正 不器用な世代への応援歌

AERA3月20日号を買う。「小田和正 不器用な世代への応援歌」という記事が載っている。インタビューとかではなく、ライターが周囲のさまざまな証言やライブを観た印象、これまでの歴史などを踏まえて書いている記事。
建築との訣別。売れない時代の頑固さ。訪れたいくつかの転機。
やはり、小田さんは、ひとかたならぬ「修行」をくぐりぬけてきているのだ。


えーと、読みにいらしてくださる奇特なみなさまには、このあといつもの暗い手探りばっかりで申し訳ないので、ここで区切りをいれます。mixiなどから記事をクリックしたら、「続きを読む」フォーマットがきかないような気がします。すみません。この続きには、考えて書きなぐったことを、ちょっと残させてください。


さて、わたしは、試練から逃げているのか。修行から逃走しているのか。
わたしの修行とは一体なんだろう。試練を避けてはいけないのか。そんなにしんどいおもいばかりを毎日毎日しなければならないのか。それともこんなのしんどいうちに入りゃしないのか。

わたしが怠惰になっただけなのか。雷に打たれるように変わらなければならないのか。いや内側から変わらなければならないのか。

絶対を消し去ってラクにはなったけれども、怠惰にもなっている。
この延長線上にはぼーっとした人生しか思い描けない。

小田さんの頑張る姿を見てわたしも頑張らなきゃと本当におもう。でもホントだよホントに。ホントに死に物狂いで頑張らなきゃならないんだよ。
頑張るのと我慢とはちょっと違うけど、まずわたしには我慢が足りないんだろう。自分の役割から逃げないで我慢しなきゃならないときもある。
どっちなのか、わたしは逃げているのか、逃げてあっちゃこっちゃへ行っているのか。それともそれは逃げではないのか。精一杯の範囲内なのか。どちらなのかわからない。

今、わたしが死に物狂いで頑張らなきゃならないのは、何? 家の中のこと?

家事や育児から逃げずに死にもの狂いでやらなきゃならない、ってこと?

勉強したいとか大学院がどうとか、そういうのは逃げでしかない、ってこと?


小田さんの頑張りは尋常ではないという。

わたしは昔から怠け者だったのか?そうでなかったのなら、いつから怠け者になったのか?そんなことは今さらどうでもいいから、今からただちに怠け者を返上すればいいのか?
怠け者か怠け者じゃないかは、どうやって知ることができるのか?