門前の小僧、悩む

ワタシの実家へ行ってきた。相変わらずハハのことはニガテで顔もまともに見られないのだが、父とはたくさん話をしてきた。
父は瑞宝重光章なんぞをもらっている割には、メジャーな著書や説教集なんてのは出していない(エゼキエル書の解説書はあったかな)。ひたすら学校行政に貢献していたということだが、礼拝説教や聖書解釈はわかりやすく、人に優しい内容で、かつ身勝手解釈になりすぎない厳しさもあるせいか、それなりに人気があったようだ。最近は2箇所の教会にそれぞれ月1回ずつ行くだけだが(もったいない)。
狭い書斎の中で、「説教のメモはここ、雑誌の寄稿や書いたものはここにあるから。」と、遺言のような説明を聞く。姉はあまり興味を示さないらしいので、わたしが聞いておくことにする。
話の流れで、神学部のジレンマなんて話もする。某大学の神学部はこれまで、クリスチャン限定で入学者を募集し、牧師などの聖職もしくは学術研究の道へ進むことを前提としていたのだが、卒業時には十数人が一般サラリーマン就職へと「逃げて」いく。一方、他の某大学の神学部は、クリスチャン限定を外して多くの入学者を集めたところ、卒業までに非クリスチャンのうち十数人がクリスチャンとなり聖職を志す結果になったという。さて、どちらがわが国のキリスト教社会に良い貢献をしたでしょう?
また、後者の大学は結果的にはキリスト教にかぎらず比較宗教学という分野にも強くあることができ、その分野での成果も挙げている。あの大学は思い切ったことをしたもんだ、というお話。(ちなみに前者の大学も今は非クリスチャンの入れるコースも開設されている)
さて、今日話をしていて、「是非父の『説教集』を出したい」と思った。それには何が必要で、何がわたしに欠けているだろうか。
確かに、門前の小僧で、「この箇所はこういうことを言っている(特に山上の垂訓など)」「この箇所についてはこういう本を見ればわかる」「この箇所を使ってこのような説教ができる」などの知識をちょっとは持っている。だから、説教メモを読んで、それらしい原稿を書き起こすことはできるかもしれない。ただそれでは「ファンが(身内が)まとめました」レベルにとどまってしまうだろう。
では、学術的・宣教的な裏づけを足すには、何をどうしたらいいのだろう。わたしが勉強をする?!確かにその気になれば、今からでも神学部に行きなおすことも出来なくはないが...。もしくは、手っ取り早く、監修者を探すか...。
神は、わたしに、どのような道を示してくださるのだろうか。