愛と見返り

無償の愛、って、難しい。
少なくともわたしにとっては、本当に難しい。

わたしが洗礼を受けたのは、わたしという存在が周りのいろいろな人たちの「無償の愛」や「無条件のゆるし」に支えられていて、その「無償の愛」「無条件のゆるし」は、つまるところ「神の愛」「イエスによる罪の赦し」から源泉を発している、と感じたからだった。

でも、わたし自身は、どうしても愛に見返りを求めてしまう。
愛したら、こたえてほしい。感謝なんてしてくれなくてもいいけど、関心を向けてほしい。もしくは、何かプラスの効果があがってほしい。

たとえば、相方。たとえば、子供達(まだ律儀にこたえてくれるけど)。たとえば、ボイス。たとえば、職場で会う人達。たとえば、自分のかかわっている団体。
「愛の反対語は憎しみでなくて無関心」という。愛に対して無関心でこたえられると、苦しくて「ちょっとこっち向きなさいよっ!」という態度に出たくなってしまう。それも毎日とか毎回とかひんぱんに。愛が深ければ深いほど頻繁に。

そこがわたしの未熟なところだ。

わたしから半径1.5メートル以内にいる人たちを、ちょっぴり幸せにできれば、それでよかったんじゃなかったっけ?!

愛を注ぐ対象がこんなにも多くあたえられたことに、まず、感謝しよう。
そして、祈ろう。そして、愛を注ごう。
汲めども尽きぬ源泉は、いつも、わたしのそばにある。それがわたしの信仰だ。